カナーン カイナンの呪い

 このように悪霊とは実はそのように人間のエネルギー波、その変動に対して非常に敏感に反応する。これはさっきの例で言えば、次のようなことが考えられる。

 まずその悪霊にあるエネルギーを20Aとしが、その人間にある脳波がさっき言ったように20A前後を行き来しているものだと。

 その20Aを陰イオン、いわゆる陰の気による度合い、数値だと置き換えると、その20Aを行き来していた脳波が変動を起こして、5Aに変わったとしたら、その分の又別のエネルギーであるBというものにも変動が起きていると見なければいけない。つまり人間に陽エネルギーと陰エネルギーがあるものだとしたら、陰エネルギーが何らかのことで変動するということは、Bエネルギーである陽エネルギーも同時に変動をしているものだと見なければいけない。

 つまり陰エネルギーを何らかの物質的衝動作用をもたらす、物質欲望的なもの、もしくは肉体欲望的なものであるとしたら、その陰エネルギーが変動すると同時に、陽エネルギーも変動しているということだ。つまり陰エネルギーが20Aから5Aに変動したということは、一方では人間にあるエネルギー、陽エネルギーはその影響により、もともと10Bであったが、その陰エネルギーの減少により、それと同時に陽エネルギーの数値は高くなっていると見なければいけないのだ。だから陰エネルギーの消滅というか減少は同時に、反対となる陽エネルギーの増加現象を引き起こしているわけだから、この場合10Bから20Bまで増加しているという具合になる。

 つまりその関係は相互関係であると見なければいけないのである。Aだけ増加することもないし、Bだけ増加することもない。Bが増加するということは必ずAが減少していなければならず、Aが増加する以上は必ずBは減少するという、これは天秤というかヤジロベーと同じ原理で、相互作用をもたらす関係である。どちらか一方が増えることもないし、同時に増すことも減ることもないという関係だ。

 だから私は本物以外はもうだめですよ、という理由がそこにある。世の中にある宗教の多くは、実際には人間の陽エネルギーの向上を図ることを教えている。イエスは隣人を愛せ、釈迦は他人の利益になることをなせと、それで道端で歩いている老人に手を差し伸べたと、そうすればそれは善行なのではないかと。電車で立っている人に席を譲ったと、実はそういうものは、善ではない。善というものは、今言ったように、Bを増加させてAを減少させるという行為が、本当の善なのである。

 つまりその行為によってAが減少していなかったとしたら、それは善を行っていることにはならない。Bが増加していないからである。

 だからより真実を言えば、今言った行為をしたと、電車で老人に席を譲ったとする、そのときにAが増加してBが減少していなかったら、それは何かをしたということにもならない、数値が変わっていなかったら、ただその人間は、どこかを歩いたのと同じことである。つまり何もしていないのと同じなのである。しかしその老人に席を譲ったときに、その人間のBの数値が低下した、つまり下がった、その反動によりAの数値が上昇している。その場合、同じ行為なのであるが、その人間は「善」を行った、ということになるのである。

 

仏法 用語 水を去る 即ちそれ法である

 実はそういうことは宗教の世界にないわけではない。この私の原理を実行できるものは本物の人間だけ、つまりエネルギーを持っている人間だけである。又人間であったも邪悪に属するものは私のこの原理を行うことは出来ない。まし悪霊は私のいうことをやると、ショートして消滅するから悪霊が私の言うことをやることはまずありえない。

 つまり悪霊には増加するB自体がないからだ。その大切さを教えたものが仏教の実は極意であり、残っている。釈尊は本当は、「水を去れ」と教えていた。水というのは今言った陰エネルギーのことで、物質的欲望や肉体的欲望である。つまりそれを去ることが、法であると、その法というのは何かというと「ホウ」「ホゥ」「炎産」、炎を生む、炎を生じさせる、つまり陽を生じさせる、陽エネルギーを生じさせるものが、法である。

 つまり炎、陽気、陽エネルギー、善性、神格というもを出現させるには、水を去ることなのである。水を去らないのに、炎が生まれる原理はない。

 キリスト教ではこのことを別の表現で言ったが「犠牲」になれと。つまり自分にあるもの、自己を殺して、自己を殺すというのは自分の我欲や欲心、欲望を殺して、何かを行動したとき、他人のために行動したときに、初めてそれは「善」ですよと。つまり自分のために、自分が周囲によく見せるために、自分が立派な人間に周囲に思わせるために、そういうことをやっていたって、実際には水を去っていることにはならない、ということである。そして水を去らないと、結局のところは何かをしていることにはならない。歩いているのと同じなのである。むしろそういう自己愛のために利他愛を実行していたのでは、その行為はむしろBを増加させてAを減少させているだけのものになってしまうのである。実は本物と偽物の違いは、そこにあるのである。

 

カナーンの呪いは カイナンの呪い 奴隷を意味する

 

 旧約聖書にはノアという人物が出てくる。そのノアが、行ったことは、「人造人間を造れ」という神からの命令であった。

 その怪物がかつて、人間の魂を飲み込むという、その「姦淫」を司っているという怪物がいた。その怪物を通じて、人造人間たるカナーン人を生み出したのだ。

 従い、ノアはその洪水後にそのぶどう園というものを栽培していたらしいのだが、実はそのぶどう園というのは、その旧約聖書にあるはじめの、アダムとエバの時代にあった、「エデンの園」を意味するのである。そしてそこには善悪を知る木の実、というものがあり、その木の実とはとりもなおさず、そのブドウ園のことを意味している。

 そして聖書にはサタンが登場するわけであるが、そのサタンとは、その善悪を知る木の実にいた蛇のことであり、その善悪の木の実というものが近親相姦を意味する関係上、神は、それらの行為を行うものをその怪物を通じて、その魂を取り込んでしまい、それらを行った人類を、すべて人造人間に造りかえるという、計画がそこにあった。

 つまりその怪物は「近親相姦」を司るものであるが、その近親相姦を誘惑したときに、それらを行うようなものを、すべてその怪物に取り込ませてしまい、彼らの人体には以前いったその怪物の感情的エネルギーだけが宿る、もっぱら電力で動くような人体、エネルギー、悪霊というものに、造りかえられたと見るべきだ。彼らは人間のように怒る、悲しむ、痛い、苦しい、感情だけはあるのだが、その他のものは何も持たない、感情だけを具備した、自己のエネルギーもなければ、思考もない。感情だけを持つロボット、という存在に造りかえられたのだ。

 

彼らの存在性は一切それを裏づける

 彼らがまったくこの地上の人間に属さない、人間という存在に属さない、明らかに異なる、そういう存在であることは私の過去の記事を見れば一目瞭然であろうが、私のそれらの記事は、私が何かを考えて、いわゆるシナリオを作っているわけでもなんでもない。実際に自分に起こる現象を記載しているのである。つまり彼らが私に対して引き起こす現象、そのときの彼らのその実態、素性、其れをそのまま書いているだけである。別に何か、その現実にないことを、つまり実際に起こってもいないこと、実際に彼らの存在として、彼らの存在から生じいる以外のことを、私が考えて書いているものではない。実際の彼らの、その現実、つまり引き起こしていること、そのときの彼等の姿、それをそのままここに書いているだけである。つまりその内容は実際にあったこと、つまり真実である。

 私はそういうカナーン人とも思えるようなものと過去、無数に接触してコンタクトを取ってきたが、彼らのその言動の一切がおかしい、矛盾だらけなのである。

 例えば私が所属する宗教がある、その宗教でも今言ったように、犠牲の精神というか、利他愛という行動を教える。それで他人に自分をよく見せるとか、優れているように思われたがるとか、そういうものは低いに属するもので利他愛ではない。それで仮に私がそこの信者に、その教団の教えを主張して、実行したとしよう。つまり今言ったような陰エネルギーを減少させて陽エネルギーを増加させる行為である。すると彼らは私に何を主張するのか。「そんなことしたら、自分が消えるぜ?」という主張である。

 つまりその教団の教えというものを実行したら、自分が消えると訴えるのである。まずその考え方自体がおかしい、しかもそういう発言をするのはもう社会的に立派な大人になって、社会的地位で言えば学園、高校の教師である。

 とにかくその教えをしたら、消えるというのである。その消えるというのはわかるのであるが、消えるというのは、自己にある我がままとか陰の気とか、自己中心とかいう邪念、つまり物欲肉体欲が消えるのであって、何も自分が消えるのではない。自分というものはエネルギーであろう。

 人は例えば、他人のために多くの役に立つことをしたら、気持ちも気分も健康になる、ということを発言したりするではないか。ところが彼らは違う、そういうことをしたら、自分が消えると、主張するのである。

 なぜそんな発想がでてくるのか、自分たちにエネルギー、つまり生命力が宿されていないから、そういう発想が生じている。生命力というか生命のある人間であれば、私がさっき言った、水を去るという原理もわかるはずなのである。つまり奥行きというものがあれば。もし奥行きというものがなかったら、その原理は、自分が消える、ということになるのである。

 ところがその原理を聞いて、知って、「自分が消える」と思う人間はいるだろうか?いるはずがない。なぜなら人間は、そのエネルギーというか生命を持っているものであって、自己欲や物欲が自分ではない、つまり目の前にメロンがあり、もう一つキュウリがあるとする。それでもう一人人間がいる。その人間もメロンを食べたいし、自分もメロンを食べたい。けれどもその相手にメロンを譲ったと、つまり自分が犠牲になったと。水を去ったと。そしたら、自分は消えるだろうか、消えるわけがない。ところが彼らの原理は根本的に違っていて、その場合、自分が消えるというのである。つまり彼らは自己という存在でなく、そのメロンという存在、つまり物質的物欲以外のエネルギーが、実態というか本質として宿されていないのである。だからそういう発想にしても頭の中にわくことにしても、根本的に基準も何もかもが、人間と異なるという存在である。 

 第一それならばなぜ、彼らはその教団の信者としているのか、それさえも人間の原理としてはつじつまが合っていないのである。

 

 

彼らはこの地上における生存の原理自体が人間と異なる

 「彼、己より語るにあらず、おおよそその聞くところのことを語り、かつ来たらんとする事どもを汝らに示さん」

 だから私は自分で自分自身のことを語っているものではない。つまり自分の考えや夢はこうだ、自分のシナリオや自分の頭の中で考えたことをここで発言しているのではない。私の頭の中に湧き起こることは、おおよそ今まで聞いてきたことかつ、今までの体験を自分自身の知恵で編み出したもの、というものをここで発言しているもので、それは真実に根付いている真理であって、誰かが頭の中で、考えて、その思うことを書いているのとはわけが違う。

 即ち私がここで書いていることは、この宇宙そのものに実際起こっていること、人間の社会そのものの、真の姿、つまり現実を書いているだけのものである。だから人間もここに書いてあることをそうであると認識し、自覚し、いたならば、自分の周囲にカナーン人がいることも、エイリアンがいることも、わかるのである。なぜかというと、ここで書いてあることが、そのエイリアンの実態であるからだ。つまりその他霊団の本当のことであるからだ。つまりその人物は必ずや、現実の世界にいて、その他霊統がいることが理解できよう。その他霊統とは、ここで書いてあるものがそうだからだ。

 つまりここで発言されていることは、机の上のシナリオや空論、哲学論争思想にあらず。全部、実社会で実際にある真実。ということになる。

 すなわち誰かの思想でもなきゃ哲学でも自己啓発でもなきゃ考え方を述べた本とも違う。教育書とも違うし歴史書とも違う。宗教でもない。「本当」のことだ。

 心のサイエンスでもなきゃ、精神の教え、スピリチャル思想とも違う。俗に言う、こういう生き方をしましょう、こういう考え方をしましょう、こういう生き方や考え方はあなたを幸福にしますよ、という類の、啓発ではない。実際に「あなた」が、住んでいる、「あなた」の世界の、身の回りにある、あたなの住んでいる、空間、宇宙、地球、社会、そこにある真実を、これを読んで体得したものが、知るということになるのだ。つまり「あなた」は、初めて、真実の世界に、あなたの周囲が、真実に変わるということである。

 あなた方は初めて、あなた方の住んでいる、この宇宙が、どういうところであるのかを、知るであろう。

 

彼らは電気である

 

  他霊団は、ここではカナーンと発言する。同じものだと思えばいいだろう。カナーンはメロンを食べたい、人間もメロンを食べたい。もちろん分割できないと想定し、人間がメロンを食べたとする。するとカナーンが主張するのをもとにすると、「自分が消えるという」

 つまりそれをそのまま放置した状態、つまりカナーンはメロンを食べることが出来ずに、人間がメロンを食べたとする。その後、カナーンを一日中何もない部屋に設置(監禁)したとする。すると、カナーンは消えるのである。

 彼らの生きる原理とは、人間のように食物を食べて、そのエネルギーを補充する原理になっていないということなのである。もちろんご飯を食べないとその人体は栄養がいかないということになるから、カナーンの肉体も滅びでしまう、肉体が滅びれば霊は肉体から抜ける。これはカナーンも人間も同じ原理だと思われる。ところが、カナーンというのはその原理以外に、今言ったように、メロンを人間が食べたままだと、エネルギー、その電気が消えてしまうということなのである。

 ではカナーンがこの地上で存在するためには、彼らは如何なる行動を取るのか。まず自分がメロンを食べないと、電気が消えるという原理だ。

 あるいは誰かがカナーンは滅茶苦茶な野郎だと言ったとする。カナーンがこの地球で存在するためには、彼らの行動はどうなるか。つまりそのままの状態ではスイッチ、電源、電気が切れるのである。彼らは例えば、もうゴミ箱を散らかしたものをその相手に設置するか、その相手が使うものに「滅茶苦茶」という原理、つまり形を接触させるかしないと、実はこの地球におれないものである。例えばその相手が、お茶を飲もうとした、ボトルをつかんで、コップにお茶を入れようとすると、蓋ともち手がさかしまになっているとか、つまり滅茶苦茶という形をその人間にもたらさないと、彼らは均衡を保てない存在なのである。

 つまりこれは私がカナーンの実体性を示すものとして、彼らが思考と言うエネルギーで、何ものも消化できない、という存在になっていることを書こうとしたが、彼らの実体性、本質的に人間と異なる部分でとしては、そういう特徴を強く具備しているということ。

 つまり彼らはその感情というものがあるのであるが、人間のように思考によって、生命という自己によって、物事の利害、つまり不利益を消化する能力が、1%もついていないのである。従って彼らのこの一般社会における外見とは何か、40代、50代、エリートサラリーマンのように見えたかと思うと、行動が、幼稚園以下である。つまり大人の姿や形なんだが、なぜか行動がそれに一致しないという、人間からみたら非常に不可解な存在として実は、そのカナーンは地上にいる。

 

サタン 陰とは何か

 実はそれは根拠のないことではなく、事実、物理化学的な面、角度から言ってもそれはありえる。サタン、反エネルギーというようにも言ってきたが、もともとその陰エネルギーというものは何であるのか、それがわかればカナーンの原理、存在理由もわかるかもしれないのである。その人間とは陰と陽が一つに一体となっているものが人間だと思えばいいだろう。つまり理性も欲望も、理情も物欲も、実は別個に分離されているものではなく、さっきいった相互関係、つまり密実に作用して一体、つまり二位一体というか、共に影響を及ぼしあって、初めて人間という存在があるのではないかと思われる。つまりこれが一体になっていないと、最後にはどういうことになるのかというと、陰だけという原理だと、究極それは欲望や物欲、肉体欲を司るのであろうが、とにかく美味しいものを食べたいと。とにかく何でも食い散らかす。そして最後には自分の子供も、自分自身も食べてしまうという存在になる。ところが人間は自分の子供を食べたり自分の肉体を食べることはない。なぜかというと、陰と陽が一つになって働いているからだ。だから陰だけの存在でもないし、陽だけでもない、陰には必ず陽が連鎖作用しており、つまりその一定の枠は保たれているということだ。つまり人間には愛欲がある。愛欲があるからといって人間は自分の親や両親と愛欲行為をしようとは思わない。それは人間には陰も確かにあるけれども、その陰には陽も根付いているからで、一線はしかれているわけである。つまり愛欲はあるんだけれども、まさかそれが自分の親や兄弟の対象になることはない。その線を引いているのが陽、つまり理性であるからだ。しかし、陽がなく、陰が独立して分離した状態だとどうなるか、その線がない。すると今言ったように、近親相姦を妨げる何ものもないし、最終的には自分の子供だろうが、自分の肉体だろうが食べてしまう。つまりそこにあるものは、怪物という要素になる。

 人間とはまずそのように陰エネルギーというものがあったとしても、理性に基づいていて、その物欲や肉欲にも一線がしかれている。それがなかったら、他人でも何でも食べてしまう原理になるということである。

 陰というものは、実はそのように宇宙の法則、原理、物質的エネルギーだととらえないといけない。つまりこれはどういうことかというと、その陰の原理は、必ずしも人間的な要素、人格的な要素を含まないということなのである。これは以前少し述べたが、サタンとはそのような原理になっている。

 例えば、詐欺師がいるとしよう。100円のものを、100万円で売ろうとしている。明らかにそれは反に属する。あるいは10円で仕入れたものを100万円で売っているようなものがいたら悪徳であろう。そういう詐欺悪徳人がいるとして、その人間は人を騙して、そういうようにお金を得ようとしている。サタンである。反である。その人間は普通は、相手と商談し、営業しているときに、相手、客がそれを知らないと、その商品が実は100円でどこかに売られていることも、10円で仕入れていることも知らないとする。その詐欺師は、その相手にどれだけでも商談する。それは悪だからだ。反である。ところがその相手がその原価が10円であり、かつそれと同じものは100円でどこかに売られていると、知っているとする。つまりその真実を知ったとする。当然普通は、その客というか買う側は、そんな商品、つまりその詐欺師の売るような商品を買おうとはしないだろう。断るとする。

 そして、買う側が、その詐欺師が、100円のものを自分に100万円で売ろうとしていることを知ったとする。ところがその買う側、客はおかしな存在で、他のところで買えば普通に100円でその商品が買える。別に手間も暇もかからない。にもかかわらず、その詐欺師が売る 100万円の商品を買うという。100万円で売ってくれと。

 その詐欺しからしたら、100円のものを100万円で売れば、10倍の得である。その詐欺師が人間であれば、迷わず売るだろう。そんな相手が原価とか他の店でそれが100円だということを知っていたとしても、100万円でも買うというのだから、そうすれば自分は10倍の得をしたことになる。(法律上詐欺はこの場合成立しない、相手の要求があるため。相手から売ってくれと言った場合は詐欺が成立しない。1000円のジューズを販売する自販機でそのジュースを購入しても、業者には詐欺罪はかせられない)

 その詐欺師が人間であれば、自分の得と思い、その客のことはどうでも良くて、そんな原価を知っているとか相場を相手が知っているとか言うことに関係なく、得をすれば売る、というのが人間にあるもの。人格的悪である。

 しかしサタンは違う。反宇宙の力と言うものは、その客が100万円でその商品を売ってくれといってきたら、売れない。売ると、自分が消えるからである。すなわち反エネルギーが。陰エネルギーが消えてしまうので、その反対作用を引き起こし、その客には「売れない」という現象を引き起こす。

 つまりわかると思われるが、サタンとは偽、悪、醜を司る。陰である。陰エネルギー、偽の力動である。すなわちサタンというものがもしその客にその100万円で売る商品を売れるとしたら、その客がその商品は実は他では100円であり相場の100円であり、仕入れ値も10円という言う極めて悪であり、かつそれを相手が知らないとき、はじめてその商品を売れるのである。つまり偽を保つことが出来るのである。

 だからその客が仕入れ値も、相場もわかっていて、にもかかわらす売ってくれとなると、その客が他で100円のことも知っている、けれども売ってくれと、それで売ると、サタンではなくなるわけだ。つまり偽という存在でなくなるのである。従って人間の論理、詐欺師であれば自分は得だから売るであろうが、真の悪、偽の力で動いている存在は、決してその客には、100万円でいいから売ってくれ、と言われても、売れなくなるということ。サタン、陰エネルギーというものは、人間の論理、人格的なものとは違う。エネルギー反応、作用、物質的エネルギーである。